佐々木竹見のレジェンドレース メルボルンカップ・カーニバルで騎乗

(NAR地方競馬全国協会発行「ハロン」1月号から転載)

取材・文 (有)リージェント 関 麻里子
11月9日(土)オーストラリア・フレミントン競馬場
世界のレジェンド・ジョッキーたち
世界のレジェンド・ジョッキーたち。左から2人目が竹見氏

豪州最大のスポーツイベント メルボルンカップ・カーニバル

 2002年11月。オーストラリアは初夏を迎える。南部ヴィクトリア州に位置するメルボルンでは、春最大の競馬の祭典『メルボルンカップ・カーニバル』が行われ、街全体が競馬一色にそまる。

 オーストラリア連邦が設立されてから1927年まで首都をつとめたメルボルンは、オーストラリア第二の都市として、競馬のほか、全豪オープンテニスやF1など、国際的なスポーツイベントが多数開催され、世界にその名を馳せている。

 また別名「ガーデン・シティ」とも呼ばれ、緑豊かなこの街を訪れる観光客も多い。

 毎年11月第一週の火曜日に開催される国際G1『メルボルンカップ』をメインに、フレミントン競馬場で行われる『ダービー・デー』から、1週間後の『ステークス・デー』までのカーニバル期間中、人々は競馬場に足を運び、ビールやワインを片手に美味しい料理を食べながらレースを楽しむ。

 メルボルンでは、カップ・デーは祝日となり、オーストラリアじゅうの人々がレースをテレビで観戦し、ラジオの実況に耳を傾ける。まさに、オーストラリアでもっとも有名なスポーツイベントなのだ。

 カーニバル期間中、フレミントン競馬場ではレースが4日間に渡り開催される。

メルボルンカップ・カーニバル
メルボルンカップ・カーニバルは多くのファンで賑わう

 今年は、11月2日(土)が『アーミ・ヴィクトリア・ダービー・デー』、5日(火)が最大イベントの『トゥーフィーズ・ニュー・メルボルンカップ・デー』、7日(木)が『クラウン・オークス・デー』、9日(土)が『エミレーツ・ステークス・デー』として開催され、この間、競馬場に足を運ぶ人の数は、のべ30万人を超えると言われている。


日本の伝説・竹見元騎手もパレードに参加
出場騎手の紹介
出場騎手の紹介

 私が現地入りしたのが11月4日(月)。メルボルン空港から一歩外に出た途端、日本とさほど変わらない風の冷たさを感じた。気温も低い。

 この日、メルボルン市の中心部「シティ」では、カーニバルの一環として大規模なパレードが行われた。

 ヴィクトリア・レーシング・クラブの役員をはじめ、現在は引退している過去のメルボルンカップ優勝馬、そして翌日のメルボルンカップに出走する地元オーストラリアの騎手たちがオープンカーに乗って市内をパレードするのである。

 メルボルンの天候はたいへん変わりやすく、先ほどまでの好天がうそのように、途端に激しい通り雨が降る。パレードが行われる直前も、突然にわか雨に遭ったが、パレードが始まる頃にはすっかり青空が広がる爽やかな気候が戻ってきた。

 沿道には、子供から大人までおよそ8万人もの人々が集まり、街行く関係者の姿に大声援を送っていた。そして、そのパレードの中に、日本の佐々木竹見元騎手の姿もあった。

 竹見氏は、メルボルンカップ・カーニバル最終日『エミレーツ・ステークス・デー』に行われるエクシビションレース『エミレーツ・レジェンドレース』に、日本代表として招待され、出場するために現地を訪れていた。

 このレジェンドレースは、メルボルンカップ・カーニバルの最終日を盛り上げるという目的で、世界で偉大なる功績を残して引退した騎手の中から、ヴィクトリア・レーシング・クラブによって選ばれた騎手だけが出走できる、まさに「レジェンド(=伝説)」の騎手たちによるレースなのだ。

 その名誉あるレースに、今年初めて日本から佐々木竹見元騎手が招待されたのである。

 オープンカーのフロント・ウィンドウに書かれた「Takemi Sasaki」の文字のうしろで、少し照れくさそうに人々に向かって手を振る竹見氏の姿があった。平日にもかかわらず集まった人の多さに驚きを隠せない様子で、「すごいねぇ」とため息をもらしていた。


世界の伝説が集合、エミレーツ・レジェンドレース
レジェンドレースに向かう竹見氏
レジェンドレースに向かう竹見氏

 3回目を迎えたレジェンドレースに選ばれた伝説の騎手たちを紹介しよう。今年は、地元オーストラリアから4名、海外から4名、合わせて8名の騎手たちが選出された(番号はレジェンドレースの枠番)。

  1. マルコム・ジョンストン(豪州・45歳)
    G1・39勝を含む通算2000勝。
  2. パット・ハイランド(豪州・61歳)
    通算2384勝。85年メルボルンカップ、84年コーフィールドカップ優勝。
  3. ジェイソン・ウィーヴァー(英国・30歳)
    1シーズン200勝以上の功績を残す。94年英2000ギニー優勝。
  4. パム・オニール(豪州・57歳)
    女性騎手。現在は競馬学校の講師を務める。
  5. レスター・ピゴット(英国・67歳)
    England's Greatestの異名を持つ。00年レジェンドレース3着、01年レジェンドレース2着。
  6. 佐々木竹見(日本・61歳)
    「Lester Piggot in Japan(日本のレスター・ピゴット)」と地元メディアも絶賛。
  7. マイケル・ゴーハム(豪州・54歳)
    2000勝騎手。
  8. アンソニー・クルーズ(香港・46歳)
    昨年のレジェンドレース優勝。現調教師。今年のジャパンカップダートに管理馬レッドサンが出走。
 午後2時前にレスター・ピゴットを先頭に8名が集合。竹見氏は、日の丸と「Takemi Sasaki」の名前が入った鮮やかな青の勝負服を身にまとっている。その表情はいつもより固く、時折笑顔を見せているものの、やはり緊張している様子であった。

 竹見氏は、8名の中でもっとも体重が軽いため、斤量も58・5キロと、唯一50キロ台であった。騎乗馬は、コリン・リトル調教師が手掛ける4歳セン馬ミスターゴースキー。

 今シーズンは3戦2勝と絶好調で、リトル調教師も「馬のコンディションは大変良い」とコメントしていた。

 そして、場内アナウンサーがレジェンドレースのジョッキーをひとりひとり紹介し、騎手たちがパドックに現れた。フレミントン競馬場に集まった大観衆から大きな拍手がわき起こった。


若いウィーヴァーが優勝、竹見氏は残念な6着
久々の実戦で懸命に追う竹見氏
久々の実戦で懸命に追う竹見氏

 誘導馬に連れられて騎手たちが本馬場入場。午後2時5分。いよいよ発走である。芝800メートルの直線レース。

 ゲートが開くと同時にパム・オニールが乗った馬が立ち上がってしまった。竹見氏のミスターゴースキーはスムーズなスタート。しかし、6枠からのスタートのはずが2枠からスタートしている。

 あとで聞いたのだが、せっかく枠順抽選会を行ったにも関わらず、きちんと自分の枠にゲートインしない騎手もいて、そのおかげで枠順なるものがめちゃめちゃだったそうである。この辺はエクシビションレースならではの面白さ、といったところであろうか。

 各馬スタート直後に、いっせいにスタンド側のラチに寄ってきた。直線レースでは、スタンドが風避けになるために、馬を外側のラチ沿いに走らせるのだという。

 当然、竹見氏も「スタートしたら、外へ行くように」との指示を、レース前にリトル調教師から受けていた。しかし、2枠からのスタートだけあって、なかなか外へ出しづらかったようだ。

 残り200メートル地点でステッキが入る。懸命に追うが、外からジェイソン・ウィーヴァーのデヴリンズブリッジが先頭に立ち、そのままゴール。30歳という若さのウィーヴァーが優勝、竹見氏は6着という結果であった。

 レース後、竹見氏は「馬は落ち着いていたけど、しょっちゅう手前をかえていたね。でも、楽しませていただきました」と満足した様子。リトル調教師は「タケミはうまく乗っていた。でも馬のベストは1300メートルだから、800メートルは短すぎたんじゃないかな」と語っていた。

 他の騎手にも話を聞いてみた。香港のクルーズ騎手(3着)は「8枠のはずが、ゲートに入ろうとしたら、パット(ハイランド)がゲートインしていたんだ! 8枠からスタートしていれば、2着には入れたはずさ。」

 一方、優勝したウィーヴァーは「素晴らしいレースだった。実は、妻がもうすぐ出産を迎えるのでいいニュースになったよ。あっ、ボクはちゃんと3枠からスタートしたけどね」。彼は、03年ドバイワールドカップ招待の賞品を手にしたのだ。

 こうして、レジェンドレースは幕を閉じた。現役時代を彷彿させる彼らの騎乗に、多くのファンが釘づけになり、声援を送り、温かい拍手を送っていた。8名の騎手たちの笑顔は、その後パドックで行われた表彰式でも絶えることはなかった。

 2002年、世界の伝説騎手による伝説のレースは、私たち観客だけでなく、選ばれた騎手たちにとっても良き思い出として心に残ったことは間違いないだろう。それは、竹見氏の「来年もぜひ、レジェンドレースに出たい」という言葉に表れているような気がする。


エミレーツ・レジェンドレース結果

着順 騎 手 馬 名
1 ジェイソン・ウィーヴァー (英) デヴリンズブリッジ (セン5歳)
2 マイケル・ゴーハム (豪) アフタークラス (セン5歳)
3 アンソニー・クルーズ (香) ランバダボーイ (セン10歳)
4 マルコム・ジョンストン (豪) クレメンジャー (セン6歳)
5 レスター・ピゴット (英) デモンタージュ (セン6歳)
6 佐々木竹見 (日) ミスターゴースキー (セン4歳)
7 パット・ハイランド (豪) ウィルカニア (セン6歳)
8 パム・オニール (豪) サイベリアド (セン3歳)

※エクシビションレースのため、タイム、着差等の発表はありません


サンタアニタの裁決委員「競馬の殿堂」入り(アメリカ)
ピート・ペダーセン裁決委員
ピート・ペダーセン裁決委員

 ピート・ペダーセンは、サンタアニタ・パーク競馬場の最上階、ゴール地点を見下ろす裁決委員室から、双眼鏡で全出走馬を監視している。

 イングリッド・ファーミン、トム・ウォードと共に裁決委員三羽烏と呼ばれるペダーセンは、80代で長身、痩躯、競馬への長年の貢献が評価され、2月にエクリプス賞を受賞した。

 競馬場の多くの人々が尊敬の念を込めて「ジャッジ」と呼ぶペダーセンは、明確な物の言い方をする、忍耐強い人物である。

 彼は、半世紀以上にわたり、米国西海岸の競馬場の裁決委員を勤め、7月4日、82歳の誕生日を迎えたが、今でも、オークツリー、サンタアニタ、ハリウッド・パーク等の仕事に追われている。

 ペダーセンが忙しいのは、監視業務に加えて、多種多様な仕事―例えば、馬の譲渡請求、ビジター調教師の保険の承認、馬場にある時計の修理等まで―をこなすからである。

 ペダーセンは、競馬が変化したこと、裁決委員の役割が変化したこと、そして、1984年、ブリーダーズ・カップがカリフォルニア州で初めて、ハリウッドパーク競馬場で開催され、ペダーセンが裁決委員を務めた時の思い出を語った。

 「最近の競馬は、昔に比べて楽しみは減ったかもしれないが、内容は格段に充実しており、ファンはずっと安心できるようになりました」とペダーセンはいう。


ブリーダーズ・カップの思い出

 1984年のブリーダーズ・カップでは、裁決委員が忙しくなるレースが幾つかあった。

 第1レース の賞金100万ドルのジュベナイル・フィリーズ(G1)では降着があり、その後のレースでは、エンジェル・コルデロ・ジュニアが騎乗停止となった。

 呼び物の300万ドルのブリダーズカップ・クラシック(G1)では、パット・ディ騎乗の穴馬のワイルドアゲイン(Wild Again)が終始先行し、頭差で優勝 した。

 しかし、直線走路の馬群の中でコルデロ騎乗のスルーオーゴールド(Slew o' Gold)と外側のラフィット・ピンカイ・ジュニア騎乗のゲートダンサー(Gate Dancer)が猛烈に競り合っていた。

 ゲートダンサーは、スルーオーゴールドに半馬身の差で2着になったが、ペダーセンおよび他の裁決は、ワイルドアゲンに問題はないが、ゲートダンサーはゴール前100mで進路妨害をしたと判断し降着とした。

 「パトロール・フイルムの審査室には、多くの新聞記者が集まり、大騒ぎとなりましたが、競馬殿堂入りしているゲートダンサーの調教師ジャック・ヴァン・バーグが部屋に入ってきて、裁決委員は正しい決定を行なったと断言しました。ジャックにはいつも敬服させられます」とペダーセンはいう。


裁決委員の日々の業務

 ペダーセンは、競馬の世界が激変していると感じている。サイマルキャストが導入され、競馬は15〜-20年前と比較して劇的に変化したとペダーセンはいう。

 「場内の入場者のほぼ3分の1が減り、今だに取り戻せていません。」

 ペダーセンは、その後、雪崩のように押し寄せてきた訴訟の頻発により、競馬が窒息し、裁決委員の力が低下したと感じている。

 「以前は、我々が正式なプロセスを踏んでいる限り、郡の判事は、裁決委員と競馬協会の運営にあまり口を挟みませんでした。」

 メディケーション、過怠金、騎乗停止等に関連して、法律の専門家が関与すると、すぐ訴訟が起こされるようになったとペダーセンは語る。

 「些細な専門的な事柄により、我々の決定が覆されることが多くなりました。法律専門家にとっては、些細な事柄ではないのかもしれません。」

 ペダーセンは、法律的な関与によって裁決委員の権限が弱められたのと同時に、訴訟書類の山により勤務時間が長くなったと感じている。通常、裁決委員の1日は、午前9時から始まるが午前中の仕事量が大幅に増加した。

 「我々の仕事を良く知らない人は、仕事の大半が午前中に行われていることを知りません」とペダーセンはいう。「午前中は、審査、インタビュー、競馬委員会からの苦情などについての処理を行います。」

 今日も、ペダーセンは、日本のJRAと連絡を取り、ヴィクター・エスピノザの6日間の騎乗停止について、日本の競馬開催日に合わせた週末2日間の騎乗停止を3週にわたって実施するのではなく、6日間連続して騎乗停止の措置に変更する許可を得た。

 ペダーセンは、大きな権限を持つ仕事をしていて、人々に恐れと敵がい心を起こさせる可能性があるにもかかわらず、モデル高校の校長のように、常に人々に尊敬され広く賞賛されている。

 それは、彼の非の打ちどころがない高潔さ、公平であろうとする姿勢、誰とでも話そうとする態度、コミュニケーションの技術、競馬の知識と競馬への愛情によるものである。

 以前は、内部情報を持つことが有利であったが、今は全ての情報が公開されている。馬の検査方法も進歩し、騎手は、馬主や調教師と協力していくためには何が必要かを良く知っている。マッキャンローやベイリーなどの騎手は、非常に聡明であると言う。


ロングエーカー競馬場からのスタート

 ペダーセンはシアトルで成長し、1933年の大恐慌の時オープンしたロングエーカー競馬場との縁で、「競馬が好きになり、引馬手として稼いだり、馬券で儲け、ワシントン大学の1年間の学費を稼ぎました。」と言う。

 ペダーセンは、在学中から、ロングエーカー競馬場の記者席のアルバイトをしており、それが彼の生涯にわたる競馬人生―競馬の宣伝、競馬ジャーナリズム、開催執務委員などの業務―の始まりだった。

 ペダーセンは、ロングエーカー競馬場の後、ポートランドメドウズ/ゴールデンゲートフィールズ競馬場の宣伝関係に移り、宣伝関係の仕事の後、下見所監視委員の職に戻った。

 その後、カリフォルニア州に移り、同州北部のベイメドウズ、タンフォラン、ゴールデンゲートフィールズの各競馬場およびフェア・サーキットで勤めた後、カリフォルニア州南部に移り、デルマー、ポモナ、サンタアニタ、ハリウッドパークの各競馬場で裁決委員を務めた。

 競馬界に実績を残したペダーセンは、エクリプス賞を贈られることを知り、謙虚な感想を述べた。そして、「最初、受賞は信じられませんでした。今でも信じられない気持です。しかし、いただいた以上返す気はありません」とジョークを言った。

 「裁決委員として受賞したことを特に誇りに思います。1985年、ケンタッキー州のデンジャーフィールドがこの賞を初めて受賞しましたが、彼は非常に立派な裁決委員だったからです。」


〔THOROUGHBRED TIMES Oct. 26 「Here comes the Judge.」、「Steward Pete Pedersen reflects on eventful Breeders' Cup reces and his distinguished career.〕