ピート・ペダーセンは、サンタアニタ・パーク競馬場の最上階、ゴール地点を見下ろす裁決委員室から、双眼鏡で全出走馬を監視している。
イングリッド・ファーミン、トム・ウォードと共に裁決委員三羽烏と呼ばれるペダーセンは、80代で長身、痩躯、競馬への長年の貢献が評価され、2月にエクリプス賞を受賞した。
競馬場の多くの人々が尊敬の念を込めて「ジャッジ」と呼ぶペダーセンは、明確な物の言い方をする、忍耐強い人物である。
彼は、半世紀以上にわたり、米国西海岸の競馬場の裁決委員を勤め、7月4日、82歳の誕生日を迎えたが、今でも、オークツリー、サンタアニタ、ハリウッド・パーク等の仕事に追われている。
ペダーセンが忙しいのは、監視業務に加えて、多種多様な仕事―例えば、馬の譲渡請求、ビジター調教師の保険の承認、馬場にある時計の修理等まで―をこなすからである。
ペダーセンは、競馬が変化したこと、裁決委員の役割が変化したこと、そして、1984年、ブリーダーズ・カップがカリフォルニア州で初めて、ハリウッドパーク競馬場で開催され、ペダーセンが裁決委員を務めた時の思い出を語った。
「最近の競馬は、昔に比べて楽しみは減ったかもしれないが、内容は格段に充実しており、ファンはずっと安心できるようになりました」とペダーセンはいう。
ブリーダーズ・カップの思い出
1984年のブリーダーズ・カップでは、裁決委員が忙しくなるレースが幾つかあった。
第1レース の賞金100万ドルのジュベナイル・フィリーズ(G1)では降着があり、その後のレースでは、エンジェル・コルデロ・ジュニアが騎乗停止となった。
呼び物の300万ドルのブリダーズカップ・クラシック(G1)では、パット・ディ騎乗の穴馬のワイルドアゲイン(Wild Again)が終始先行し、頭差で優勝 した。
しかし、直線走路の馬群の中でコルデロ騎乗のスルーオーゴールド(Slew o' Gold)と外側のラフィット・ピンカイ・ジュニア騎乗のゲートダンサー(Gate Dancer)が猛烈に競り合っていた。
ゲートダンサーは、スルーオーゴールドに半馬身の差で2着になったが、ペダーセンおよび他の裁決は、ワイルドアゲンに問題はないが、ゲートダンサーはゴール前100mで進路妨害をしたと判断し降着とした。
「パトロール・フイルムの審査室には、多くの新聞記者が集まり、大騒ぎとなりましたが、競馬殿堂入りしているゲートダンサーの調教師ジャック・ヴァン・バーグが部屋に入ってきて、裁決委員は正しい決定を行なったと断言しました。ジャックにはいつも敬服させられます」とペダーセンはいう。
裁決委員の日々の業務
ペダーセンは、競馬の世界が激変していると感じている。サイマルキャストが導入され、競馬は15〜-20年前と比較して劇的に変化したとペダーセンはいう。
「場内の入場者のほぼ3分の1が減り、今だに取り戻せていません。」
ペダーセンは、その後、雪崩のように押し寄せてきた訴訟の頻発により、競馬が窒息し、裁決委員の力が低下したと感じている。
「以前は、我々が正式なプロセスを踏んでいる限り、郡の判事は、裁決委員と競馬協会の運営にあまり口を挟みませんでした。」
メディケーション、過怠金、騎乗停止等に関連して、法律の専門家が関与すると、すぐ訴訟が起こされるようになったとペダーセンは語る。
「些細な専門的な事柄により、我々の決定が覆されることが多くなりました。法律専門家にとっては、些細な事柄ではないのかもしれません。」
ペダーセンは、法律的な関与によって裁決委員の権限が弱められたのと同時に、訴訟書類の山により勤務時間が長くなったと感じている。通常、裁決委員の1日は、午前9時から始まるが午前中の仕事量が大幅に増加した。
「我々の仕事を良く知らない人は、仕事の大半が午前中に行われていることを知りません」とペダーセンはいう。「午前中は、審査、インタビュー、競馬委員会からの苦情などについての処理を行います。」
今日も、ペダーセンは、日本のJRAと連絡を取り、ヴィクター・エスピノザの6日間の騎乗停止について、日本の競馬開催日に合わせた週末2日間の騎乗停止を3週にわたって実施するのではなく、6日間連続して騎乗停止の措置に変更する許可を得た。
ペダーセンは、大きな権限を持つ仕事をしていて、人々に恐れと敵がい心を起こさせる可能性があるにもかかわらず、モデル高校の校長のように、常に人々に尊敬され広く賞賛されている。
それは、彼の非の打ちどころがない高潔さ、公平であろうとする姿勢、誰とでも話そうとする態度、コミュニケーションの技術、競馬の知識と競馬への愛情によるものである。
以前は、内部情報を持つことが有利であったが、今は全ての情報が公開されている。馬の検査方法も進歩し、騎手は、馬主や調教師と協力していくためには何が必要かを良く知っている。マッキャンローやベイリーなどの騎手は、非常に聡明であると言う。
ロングエーカー競馬場からのスタート
ペダーセンはシアトルで成長し、1933年の大恐慌の時オープンしたロングエーカー競馬場との縁で、「競馬が好きになり、引馬手として稼いだり、馬券で儲け、ワシントン大学の1年間の学費を稼ぎました。」と言う。
ペダーセンは、在学中から、ロングエーカー競馬場の記者席のアルバイトをしており、それが彼の生涯にわたる競馬人生―競馬の宣伝、競馬ジャーナリズム、開催執務委員などの業務―の始まりだった。
ペダーセンは、ロングエーカー競馬場の後、ポートランドメドウズ/ゴールデンゲートフィールズ競馬場の宣伝関係に移り、宣伝関係の仕事の後、下見所監視委員の職に戻った。
その後、カリフォルニア州に移り、同州北部のベイメドウズ、タンフォラン、ゴールデンゲートフィールズの各競馬場およびフェア・サーキットで勤めた後、カリフォルニア州南部に移り、デルマー、ポモナ、サンタアニタ、ハリウッドパークの各競馬場で裁決委員を務めた。
競馬界に実績を残したペダーセンは、エクリプス賞を贈られることを知り、謙虚な感想を述べた。そして、「最初、受賞は信じられませんでした。今でも信じられない気持です。しかし、いただいた以上返す気はありません」とジョークを言った。
「裁決委員として受賞したことを特に誇りに思います。1985年、ケンタッキー州のデンジャーフィールドがこの賞を初めて受賞しましたが、彼は非常に立派な裁決委員だったからです。」